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2019年4月

JISEI (自省) 録(2019/04/28)

この世のなかにはいろんな人がいる、いろんなものがある。
いま使われている意味における善いも悪いも
ストア哲学派が意味する善いも悪いも含めて
いろいろいる、いろいろある。
この世のなかに、この自然のなかに、この宇宙のなかに、この摂理のなかに。
そしてこの世界に表象(あらわ)れているすべてのものはバラバラのようで、ひとつであり、ひとつながりになっている。
よく見聞きする、人はひとりでは生きていけないということがそのことを表している。
個々に見ると善きも悪しきもあるのだけれども、それらはひとつのなかにある。
他を見て、悪しく見えたとしても、それは自分のなかにあり、自分に返ってくる。
汝も我もすべてひとつのなかにあるのだから。
たとえ悪しく思えたとしても、それを表すことはできない。
その悪しき物事に働きかけることはできる。他者を変えることはできないというけれど、良きも悪しきもひとつの内なるもののなかにあるのだから、働きかけることができるものだ。
すべてはそれぞれのものへ、それぞれはすべてのものへつながり、働きかけあっている。
このことを知り、受け入れることでこころのなかは平静がもたらされ、令く(よく)、和やかなものとなる。

 

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『 JISEI 録』(時制・過去)(磁性)(自製)

僕の、かつての『朝の時間割』は
朝4時頃に起きて、30~60分、瞑想することだった。

ところが、

瞑想は役に立たない

というような文章に触れ、一気にぶれてしまいやめてしまった。

『良き人生について―ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵』を読み終え、その磁性に惹きつけられて、私勝手に名づけた、自製〈ストイック・メディテーション〉、
すなわち、
〈Stoic=ストア哲学派的な瞑想〉をやってみようかと思い返しているところです。

つまり(引用 p.127)、
”坐禅とはもちろん完全に異なる。禅僧は坐禅しているあいだ、何時間も心をできるだけ空っぽにして座っている。反対にストイックが寝る前に瞑想するとき、心はきわめて活発に動いている。彼はその日の出来事について考える。心の平静が乱された出来事はあったか? 怒りを経験したか? 羨望は? 性欲は? なぜそれらの出来事は心を乱したのか? 心を乱されるのを避けるために、できることがあったのではないか?”

無にならなくていい。マインドフルネスとも違う。まさしく目を瞑(つむ)って想うのだ。
このような瞑想なら、無になる(=無駄になる)ことはなさそうだ。
できていない『振り返り手帳術』を頭のなかで行なうのだ。
そしてそのことを書き留めることにつながるかもしれない。

あとは時間割して、実践あるのみ。

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『 JISEI (自省)録』2019/04/24

少し昔、仏教や瞑想に関心をもったことをきっかけにヨガのクラスを受けるようになった。
仏教はなかなか手ごわいと感じるなか、老子を読むようにもなった。
老子のいう、あるがままも、なかなか雲をつかむような感じがした。
『ハンナ・アレント―伝えることの人間学』を読んで、アレントに関心を持ちつつ、いろんな哲学者の関連本を読むようになった。
ソクラテス、ニーチェ、レヴィナス、プラグマティズム関連が印象に残っている。
手を広げることはできないが、シモーヌ・ヴェイユ、ラーマクリシュナ、マルティン・ブーバー、空海、道元、良寛、マインドフルネス関連などが気になる。
『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』を読んで、荀子を知ることになった。
荀子は性悪説も唱え、あるがままでは良くないんだとしていることで関心が強まった。
あるがままの、老子と違ったものの捉え方をどのようにしているのか、と。

そして、【100分 de 名著】を通して、マルクス・アウレリウスの『自省録』を知る。
仏教に通じる面を感じつつ、わかりやすさ、受け入れやすさが心地よい気がする。
老子の道〈タオ〉に通じつつ、荀子の性悪説を超えて、自然の摂理に身を委ねたい。
プラグマティズムと通じるような実践、実用的なことばや考えを身につけたい。

 

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