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2007年3月

ことのほか(5)

 《ことのほか》 殊の外、胸に刺さってくる言葉がある。その言の外にあるものは…。その言の他にあるものは…。そんなことのほかな言葉を書き留めます。 by Rhyme(らいむ)

 僕はこの“こと”をすぐに環境破壊と結びつけた。しかし、それだけではすまなかった。木々と人間の関係ばかりでなく、人と人との関係性にまで及んで言い得ていると思った。実務的な仕事上の人間関係はもちろん、心情的な人間関係、友情・愛情、家族そして恋人、夫婦の関係においても…。

 「木々は苦しんでいるのですよ」と、彼は言う。「しかも木々の病苦は、かならずしも物質的なものとはいえないのです。わたしたちには思いもよらないほどの精神的苦悩が木々に宿っていましてね。ところでいつもといってよいほど、まさに人間がですね、木々に自分の悩みを感染させ、つらい思いをうつしているのですな。それというのも人間というのは、喜ぶときもじつに利己的ですが、自分の心や精神が不調だと、自然全体を巻き込んで不調の仲間入りをさせないではいません。すぐそばで暮らしている人間のせいで毒にやられた木々のことを、私は知っていますよ。…(中略)…木々はというと無防備です。ですから、人間の愛情が足りないと、彼らの無関心のせいで枯れてしまうのです」。

 (中略)

 《肌は人間のほうがかよわいですよ。でも心は人間のほうがもっとごわごわした皮で覆われていますな。ですから、人間はその衝撃を感じないのです。ところが樹木のほうは、そのいちばん内密なところ、いちばん深いところを揺さぶられます。この衝撃は、ためになることもあり、傷つけることだってあります。》
     マルセル・ブリヨン『幻影の城館』より

 この一連のくだりは最近になくことのほか胸に染み入ります。その全文を書きとめておきたいのですが、長過ぎます。この本をどこかで見かけたら、読んでみてください。最初のページから読み進めてもそんなにかからずに探し出せると思います。
 諦めきれずもう少し。

 《連中は繊細さを増すと同時に、いくぶん性根が歪んでゆくのではないか、そこが気になるのです》。
             同上より

 私が繊細なだけなのか…。あるいは、向かうが図太いだけなのか。いずれにせよお互いに性根が少しずつ歪んでいっているような気がしてならない。

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ことのほか(4)~言の他~

「彼は同じ悟ったような微笑を浮かべたまま、わたしの返事に聞き入った。まるでこう言っているようだった。《ほうら、わたしたちは理解し合えないのですよ。同じことばを使っているのに、おたがいに別々の意味を使っているのです》。生まれたての赤ん坊か、自分たちの言語の通じない未開人と意思を疎通しようとしているのと同様だった」
     マルセル・ブリヨン『幻影の城館』より

Joukan

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清く生まれ、善く生まれ変わるために

Babyssay
 猫の中には100万回生まれ変わり、生きたものがいるが、伝説的には猫は9つの魂をもち、9回生まれ変わると聞く。同様のことが人間の赤ちゃんにも言えるらしい。赤ちゃんは生後1年の間に8回生まれ変わり、その後1歳3ヶ月と1歳6ヶ月の2度に渡ってさらに生まれ変わることがわかってきているらしい。その生まれ変わりの時期は母子共に成長過程とはいえ危うい時期でもあるらしい。赤ちゃんは泣き暮らし、お母さんは悩み戸惑う。時にはその時期に悲惨な事件が起きてしまうことを多々見聞きする。そんなことが起きないように、また、起こさない前に、そして清く生まれ、善く生まれ変わるために辛抱強く、おおらかに赤ちゃんを観守ってほしい。赤ちゃんが救いを求めているのは母であるあなたであり、赤ちゃんに手を差し伸べてあげるのに一番ふさわしいのはあなたなのだから。

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記《善く、正しく、美しく》生きる

「他者を尊重しつつも関心を持ち、『ちゃんと生きたい』という気持ちがある。一人一人とお互いに『これが正しい』と合意できるあり方を模索しています」
  平野啓一郎さんの言葉:
   毎日新聞2007/3/22〈文化 批評と表現〉より 

 清く、正しく、美しくという言葉があった。いやいや今もあるのだが、正しくとか美しくとかはさて置き、清くというのはなんだか耳慣れない言葉になってしまったような気がする。清くにふさわしいものを思い浮かべるなら、生まれたての赤ん坊くらいなものか。これでは想像力の欠如と言われかねない。きれいな花をはじめとする多くの自然は清いと言えるだろうし、生きる術としての動物の本能もまた清いと言えるかもしれない。ところがそれらに先に目を向けることなく、環境を破壊したり、生活の糧として動物を狩っては絶滅種を増やしたりしている人間の愚かな行動に為す術なく呆然と立ち尽くしている自分の中にもはや清くという言葉はないように思える。生き続けていけば、一点の曇りや汚れもなく美しいままを保てることなどできないように思える。清くとはまさに理想の極みのようなものか。一点の曇りあらばゼロと化す、0か100かどちらかしかない世界のようだ。生あらば100は到底無理。ゼロ、皆無だ。神が死んだように、清くも死んだのかもしれない。取って代ったのが何らかの基準を元に表せるものたち。それが、善くだったり、正しくだったり、美しくだったりするのかもしれない。ただここでもその基準のあり様がどうなのかということが問題になってくる。すべてに通じる一つの基準というものを設けることは難しく、できないだろう。ましてや人と人、個と個、お互いに合意できるあり方を見つけていくのはさらに難しく、叶ったとしても多くのあり様が生まれ、生きやすくなるような、生きにくくなるようなジレンマが生じそうだ。そんな揺れ戸惑う思いを大きく包み込むかのように、祈りの際に生きとし生けるものすべてのものの幸せを願うブータンの人々の生き方、精神は美しく、正しくもあり、善いことであり、まさに清いものと言えそうだ。

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ことのほか(3)~どう生きるか!?にかえて~

ブータン研究所所長 カルマ・ウラさんの言葉

 「私が関わってきた国民総幸福量(Gross National Happiness)という考え方に関連していえば、幸福ということは一人ではあり得ません。人と人との関係の中でしか幸福はあり得ないということです。その考えは仏教に根ざしています。幸福ということは仏教的にいえば、悟りを得ることに近いものだと思います。先ほども申し上げたように、それは人との関係においてあるものですから、他の人が不幸な状況にある中で、自分だけが幸福であるということはあり得ない。幸福を追求するということには責任が伴うものです。それは私たちの行いにかかっています。幸福は単独ではあり得ないのですから、善い関係をつくるためにはまず自分自身の行動を変えていかなければなりません。それを目指すことが大切だと思います。欧米的な考えでは生活がよくなれば人は幸福になれると言います。確かにそれは社会的進歩には違いないでしょう。しかし、それは仏教から言わせれば非常に低いレベルの話です。食べることに困らないとか、人権を侵しませんというようなことだけでは決してみんなが幸福になるとは思えません。もっと上を目指していく必要があると思います。そのためにはまず人と人との関係を改善していくことが重要です。他人の幸せなしに自分の幸せもないのですから、何をもって社会の進歩をはかるのかと言えば、人間関係の改善こそ進歩の尺度にすべきだと思います。

 ブータンでどのような仏教的価値観を大切にしているかと言えば二つあります。一つは仏教用語で言うところの縁起です。つまり、あらゆるものが互いに関係しているということです。縁起ということは、これは理屈ではなくて、みんな身をもって感じていることです。そしてもう一つの考え方は無我です。つまり、自我など大したことではないということです。自分というものが自分だけで存在するのではなくて、他との関連の中にあるということなのです。この縁起と無我という二つの概念は非常に強くブータンに根付いています。そうすると自分だけの幸福というのは当然あり得ない。たとえばニワトリを食べるときに人間としてニワトリを食べる。その面からしかみんなものを考えないけれども、一度立場を変えて食べられる側からその関係をみてみることも大切です」
   NHKハイビジョン特集
    「五木寛之 21世紀・仏教への旅」シリーズ
     『幸福の王国をめざして ブータン』より

(草案)ブータン憲法第三条 精神的財産
 「仏教はブータンの精神的財産であり、なかでも平和、非暴力、同情、寛容の原則と価値を奨励するものである」

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どう生きるか…

 「人は巧みに生きるべきか、それとも、善く生きるべきか」ということをザックリと、すっきりと投げかけられて、思わず受け取ってしまったのですが、はたしてこの両者、巧みと善くを選び、並び合わせてよかったのだろうかと考えます。人がどう生きるか…いろんな生き方があるので、巧みに生きてはいけないのかとか、善く生きればそれでよいのかとか考えさせられます。巧みにというと、物事を手際よく、じょうずに成し遂げることで、僕自身は手際よく事を進めることはできると思っているけれど、成し遂げたものがあるかというとなかなか思いつきません。生きるということ自体、成し遂げるということと相通じるものがあるといえるのでしょうか。生きているうちに何かを成し遂げることができたとしても、成し遂げた状態のままではいられず、さらに成し遂げようと生きていくのだと思います。生きていくことで成し遂げられるものがないならば、うまく生きることもできないといえるのではないか。生き抜いて、死を迎える段になって成し遂げられるかというと、輪廻転生という考えに照らせば、前世では成し遂げることができなかったことを成し遂げるべくして新たな生を受けることになるので、死をもって成し遂げられるということもないということになります。巧みに生きるということも難しい。また、うまいということが手際がいいという意味をもつと共に、技術的に優れていることも挙げられることからすると僕にはとりたてて技術を持ち合わせていないので、手際がいいものの、決してうまくはないというのが本当のところでしょう。また、善いが良いであるならば、僕は決して質が高くもなく、能力が優れているわけでもなく、地位も高くなければ、健康でもないから、やはり善くもないことになります。善いを紐解けば、関係が良好ということも挙げられますが、僕はどうも関係をもつことにどことなく落ち着きを感じることができない性質のようで、現に妻との関係も必ずしも善いと言えるかどうかあやしいと思っている次第。どうやらなかなかうまくも、善くも生きてこなかったし、生きていけそうもない、と言っては元も子もないので、もう少し向き合ってみましょう。僕がどう生きてきたかと振り返り、言葉で表現するならと考えて、ニ、三、挙げてみようと思います。まず思いついたのは、そつなく。こうは思ったものの、概ね要領はよかったものの、手抜かりはあったし、無駄もありました。そつなく生きてきたとも言いがたい。では、大過なくはどうか。いい響きでいい線いっているかと思いましたが、僕には大過がありました。いよいよわからなくなってきました。もっと簡単に、ただ単純に“生きる”ということに徹してみたらどうか。生きるに、変に形容詞や形容動詞をくっつけてみたり、内容を求めたりすると小難しくなってしまう。この世に生まれ出てきたのも奇跡。ただ生きているだけでめっけもの。生を受けた瞬間からすぐそばに死が寄り添ってついてまわって生きていく。死に向かって、死がいつ訪れようとも、死を受け止めて転じてもなお生きていけるように、一瞬一瞬をひたむきに生きていくことが大切なのでしょう。そこにはうまいも、善いも、せつなくも、大過なくもありません。生きる、そのものしかありません。さて、あなたはどう生きます? そして僕は…。

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短編『フェカンにて』

Anata_1前略
 先日、『あなたが、いなかった、あなた』を読み終えました。平野啓一郎さんの本を初めて読んだことになります。これを読もうと思ったのは、小説として、文学として、たとえば、ソナタをはじめとする形式に則ったものと違い、かなり意欲的に工夫を凝らしたものになっていて、小説に新しい空気を吹き込んであるようなことが言われていたからです。僕は興味が湧いてきて、実際に読んでみようと思い、でも、そのような意図が散りばめられていると逆に奇を衒った感じに満ちて、おもしろくなくハズレなんじゃないかと穿った気持ちもあって買わずにいて、たまたま図書館の新着リストに載っていたのを偶然見つけ、予約して、借りて読んだのでした。確かに『女の部屋』のようにものすごく工夫されていて、奇を衒ったかのような、戦略的なものもあり、(確かにこのような小説を読んだことも、見たこともなかったなぁ)と思わせるものがあったものの、僕のように本をうまくも、よくも読むことができない僕には、いちいち解説なぞされてみないといつまで経っても雲を掴んだような気分のまま取り残されることになり、案の定この本の新しい空気をうまくつかめませんでしたし、よくわからなかったというのが本当のところです。ただ『フェカンにて』という短編はワクワクするような楽しさと、おやおやという不可思議な気分で読み終えました。この短編の主人公・大野は作家で、読み進めていくとこの主人公は平野啓一郎氏そのもののように映り、大野が書いた作品のタイトルは平野氏が書いた『葬送』をもじり、内容までもそれと同じようであり、それをどのような狙いで、どのように戦略的に書き進めたのかというようなことが書いてあり、大野を通して平野氏の小説論、あるいは著者による解説を読んでいるかのような錯覚に落とされてしまう感じで、自作についてのエッセイだと思える人も出てくるかもしれないなというような平野氏の狙い(…かどうかは知らないが)に僕などはまんまとはまってしまうような小説でした。俄然、単行本の時に買ったまま本棚の片隅に置いたままにしているうちに文庫でも発売されて久しくなり、このほど『あなたが、いなかった、あなた』の中に納められている『フェカンにて』を読んだことによってようやく早々に読む時間と機会をつくろうと思うに至っているのが、ぼくが、読んでいなかった、ぼくの、もっている本『葬送』ということになります。不思議な巡り合わせです。
                          草々

 そうそう、平野啓一郎さんは瀬戸内寂聴さんとも交流があるようで、旅行に行ったり、食事をしたりしているようです。今日、録画してあったNHKハイビジョン番組〈瀬戸内寂聴 遺したい言葉 カリスマ尼僧84年目のメッセージ〉を見て、知ったのも不思議な巡り合わせです。寂聴さん自身、数多くの不思議な巡り合わせを生き、今では老いや死をひしひしと感じ始めた寂聴さんのメッセージは篤く響いてくるものの、自ら「地獄に行く」とおっしゃっていたのを耳にし、寂聴さんですらうまくも、よくも生きることは難しいものなのだと感じました。

 『舟は波まかせ、波は風まかせ、船頭は竿まかせ、恋は主まかせよ』
                            瀬戸内寂聴

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アビー、MEOW ! のデビューなるか!?

Meow
 2008年春に日本のみならず世界中で、MEWsic・DUO(ミュージック・デュオ)の MEOW! としてデビューを目指しているあたしアビー(右)は今、デュオを組んでくれる相棒を募集中です。デビューアルバム♪MEOW !♪のCDジャケットを遊び相手のゴマちゃんといち早くデザインしてみました。デビュー曲も決めています。
 ♪Wake you up because I feel hungry♪
(邦題:ペコペコ・ウェイク・ユー・アップ ― 空腹を感じる切実なタイトル!)

アビー「どう?」
らいむ「がんばれ!」
アビー「明日もこの曲に乗って、起こしてあげるね!」
らいむ「6時にお願いします。5時はやめてね」
アビー「お腹の空き具合によるわね」

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本『カンバセーション・ピース』

Conversationpiece
 僕が初めて読んだ保坂和志さんの本、この『カンバセーション・ピース』(conversation piece)には全編を通して、猫に、人に、会話に時間の流れて、(peace)平和な日常の一片が連綿とまったりと紡がれている。我が家においても、アビーに、妻に、僕にもう少し時間の流れれば、もう↑一編と言わずとも会話に満ちた平和が戻ってくるかもしれない。そのためのひとつのカンバセーション・ピースがアビーであることは間違いない。いつも元気で、よく眠っていて、時によく走り、時に強く噛むアビーは僕らの流れる時間に平和をもたらしてくれる。
Conversation_piece2
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「まぁ、あたしをピース(piece)だなんて失礼な。もういっぺん言ったら、思い切り引っ掻いてあげるわ。それから平和に時間の流れる、あたしのモットーを教えてあげる」

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ことのほか(2)

「愛すれば愛するほど人は魂の孤独の本然の姿に目ざまされる。たとい相愛の男女が共に暮らしても、魂の孤独は決して救われない」
            瀬戸内寂聴『世外』より

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映画【スターフィッシュホテル】

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 先日、5年振りくらいに渋谷に立ち寄ったあと、六本木に向かいました。この街には六本木ヒルズができて間もなくおのぼりさん状態で行って以来久しぶりのことで、映画【スターフィッシュホテル】を観るために赴いたのです。ネットで映画をチェックしていたとき、偶然に知り、その怪しげな映像美と、ホテルとついたタイトルと、佐藤浩市主演ということと、怪談と『不思議の国のアリス』を掛けて円周率で割ったような不思議で、怖そうで、不可解なストーリーに俄然興味が湧いたので、無性に観たくなったのでした。映画館はその場所を地図で大体の位置を覚えてきたものの、ちょっと入り組んでいてわかりづらく、《迷宮の街の一角》に立つミニ・シアターでした。ロビーで待っている間もその場所を問い合せてくる電話が数本入ってきていました。やがて時間が来て、迷宮のようなお話が始まりました。
 映画を観た六本木という場所柄のイメージとダブる、一見リッチで、何不自由なく暮らしているけれど、その関係や暮らしにちょっとした渇きを感じさせる有須夫婦が登場します。この渇きは今の僕らにも忍びこんできているものと同様のような気がしました。有須は毎晩のように悪夢を見ています。やがてそれが象徴的に現実化したような出来事が起こります。なんの前触れもなく有須の妻が行方不明になり、一方ではウサギ男が現れます。何度となくウサギ男は有須の前に現れ、妻の失踪を含めた彼の心の中の、渇きや戸惑いや恐れのようなものを突きつけるように接します。遂には消えた妻の居場所を臭わせ、逃げるウサギ男を追って、街中を失踪し、会員制クラブ・ワンダーランドを彷徨います。妻はどこに行ってしまったのか、なぜ消えてしまったのか、その謎が幻想的な映像と共により一層謎めいて、物語は展開していきます。
 話の不可解さや、薄暗い映像美に絡め取られたかのように上映中館内は静まり返っていました。よくわからない、というような空気が広がっていたのかもしれません。ラストシーンの後エンドロールが始まる前に足早にスクリーンを後にした人もいました。有須が見た夢のように、僕らも映画という夢の世界の話に魅入られ、不思議な感覚と想いに包み込まれたのかもしれません。そして夕闇迫る六本木という街の迷宮に散りゆき、慌しく動く人波の中に入り、喧騒と同化して溶けて消えていきました。僕はふと思いました。妻はどこに向かっているのだろうか、やがて消えてしまうのだろうか、と。
Starfish

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OSCARと出遭う

Oscar_bat Oscar_cricket_1 Oscar_frog_1 Oscar_moth2_1 Oscar_moth_1  
 先日、5年振り!?(もっとかなぁ…)くらいに渋谷に行き、パルコの本屋で偶然出遭いました。まんまるおめめの、ネコのオスカー君です。僕が見たのは『OSCAR and the BAT』で、この記事をアップするにあたり、検索したらシリーズでいくつか出ていました。洋書ということでどうしても値が張ってしまいます。子供向けの絵本で、英語も簡単ですし、猫キャラ・オスカーが可愛いのでつい衝動買いしたくなりますが、最近の本に対する財布の締め具合がきついこともあり、ペラペラしただけで帰ってきました。コレクター気質の僕にはこれらの画像があれば十分です。

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ガンカケテネンブツヲトナエルヨウニ

 ホンジツ、コクミンドラッグニテ
「トウーキーシーギャクーカーゴーショウーキョウートウー」トイウ、ナンダカオキョウノヨウナナガタラシイナマエノカンポウヤクヲカッテキマシタ。トクニカンポウソウダンセズニ、テントウノポップニショウジョウトコウノウガワカリヤスクヒョウキサレテイタノデ、カンポウコトハジメトシテキガルニハイリコメソウナカンジガシマシタ。ユウショクヲオエタイマ、サッソクフクヨウシヨウカトクスリヲテニシテミタラ、ヨウホウガショクゼン1ジカンマエダトイウコトデ、アシタカラハジメルコトニナリマシタ。カンポウデスノデユックリトカラダニキイテイクノダトオモイマスガ、ハタシテホントウニボクノヒエハカイゼンサレテイクノデショウカ? タノシミデアルトトモニ、モシモジョジョニヨクナッテイクトシテモ、ソレハジキニハルマッサカリニナリ、ヤガテナツヲムカエテシゼンニカンワサレテイクニスギナカッタリシテ…。イヤイヤ、ナツデモボクノアシヲツメタクカンジルヒトガイルカラ、ヤハリキナガニフクヨウシテミヨウ。
(ドウカ、ボクノカラダトココロカラ、ヒエヲトリノゾイテクダサイ)ト、ガンヲカケテ、
当帰四逆加呉生姜湯(トウキシギャクカゴショウキョウトウ)ヲフクヨウシテミマス。

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スペースシャトル・らいむは水星探査に

 テレビをつけていると何かとお目にかかる細木数子さん。占星術の先生という面を取っ払ってみれば、昭和の時代に多くいた、自分の子に限らず誰彼と悪いことは悪いと叱りつけて、しつけてくれた近所のおばちゃんという感じがする。平成の今もそうした方はいるのでしょうが、その数は昔と比べれば随分と少ないことでしょうし、悪化する地球環境に翻弄される絶滅種のような存在だから注目を浴びているのかもしれません。僕にしてもなんとなく細木さんが出ているとその言動を見ていたくなって、ついつい番組を終わりまで見てしまうことが多いです。段々影響を受けてきて、本屋で著書をペラペラすることもあります。今日はネットで六星占術を検索なぞしてみました。自分のこともさることながら、妻が水星人だということがわかりました。僕からするとやはり水星人はすごい。かなり偏って、ぶっ飛んでいる気がしました。僕も似たような偏りがあることを自覚しているので、この水星人の気質をそのまま頼りにして、僕は僕で進んでいけばよさそうだなというふうに考えてやって行こうと思いました。
  水星人は、とても利己的でクールだそうです。僕はAB型的クールさがあるので、妻に対してもっとクールに接しちゃっても大丈夫そうだと判断しました。一見、柔和な穏やかな表情と物言いなのですが、胸の奥には強靭な意思があることはわかっています。他人と自分の割り切り方も潔いようです。その点もAB型だって合理的な考動をします。ただそれ以上に冷徹な面があるようなので、優柔不断な流され人としてはそのクールさに気持ちが揺れ動く日々が続いていたのです。普段なかなか顔を合わせたり、話をしたりする機会が少ないにもかかわらず、録画ビデオを見たり、ゲームしたりして、一緒に何かしようという素振りはありません。僕はふたりの時間が少ないので、できるだけ多くふたりでいられる時間をもとうと土日に勤務が入っているときは寄り道せずそそくさと帰ってくるようにしていたのですが、帰ってみるとビデオとゲームにどっぷり浸かっているので毎回拍子抜けしていたのです。それほどのクールさをもっているのであれば、AB型のクールさなど赤子のようかもしれません。孫悟空のようにお釈迦様の手のひらの内でもう少し気楽に動いてみてもよさそうだと思いました。水星人は孤独に強いそうです。僕も独りは好きです。独りの時のほうが活き活きしているかもしれません。これからは妻が淋しいんじゃないかってさほど気にすることなく僕は僕でやりたいことを心地よくできる環境でやっていくことができそうです。

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秘密の相談

らいむ「ねえ、アビー、弟、欲しいと思う?」
アビー「まあ、一人で留守番しているときが淋しいからねぇ」
らいむ「実はね、アビーの弟には妖精がいいなぁと思っているんだ」
アビー「妖精? 猫じゃなくて?」
らいむ「猫には違いなくて、ノルウェージャン・フォレスト・キャットっていうんだけどね」
アビー「名前が長過ぎるジャン」
らいむ「Oh!いい感じジャン! 興味、湧いてきた?」
アビー「んんー、会ってみないとね」
らいむ「そうだよね」
アビー「で、なんでその子がいいの?」
らいむ「貴女がラグドールっていってお人形さんみたいでしょ。ノルウェージャンって猫ちゃんたちは北欧らしく妖精っていうイメージがもたれていて、なんだかお人形と妖精ってどちらもメルヘンチックというかファンタジーというか、いい感じジャン!? そう思わない?」
アビー「ま、あなたらしい感覚ではあるはね」
らいむ「そうね、わかってくれてるジャン。で、どう、弟?」
アビー「ともかく会ってからじゃないとね…」
らいむ「会えるといいね。そして一緒に暮らせるといいねぇ」

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ブンダバーと出遭う

  

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 ふと絵本コーナーに寄ってみたら、それまで知らなかった猫のニューキャラクターと出会うことになった。その名はブンダバー。ドイツ語で【すばらしい】という意味らしい。耳慣れない、いいづらそうな音だけれど、それはそれは素晴らしい猫のようだ。猫語はもちろん、人語も犬語も話せる、そしておそらく虫語も鳥語も魚語も話せるかもしれないし、また老後や介護にも詳しいかもしれない、これまでと出会った猫キャラと比べても、人後に、いや猫後に落ちないに違いないかもしれない。著者・くぼしまりおさんの書くストーリーの内容はいざ知らず、表紙を描く佐竹美保さんのブンダバーが可愛い。思わず児童書ながら読んでみたくなる。ちなみにこの著者の母親はやはり黒猫のジジ、そう、あの『魔女の宅急便』に登場する猫をこの世に送り出した方らしい。かくゆう僕も黒猫ケントと暮らし、今はお転娘・猫アビーと暮らしている、猫と本と妻をこよなく愛する男である。

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命のスープ、ごちそうさま

Soupforyou もう春だというのに僕の冷え症はなかなか緩和されない。ここ数日は足首から足先まで凍りついたようで、痛みに近い不快感を感じる。厚手の靴下を履いていても温まる様子を見せない。湯船に浸かっても、まあこれは程よい時間浸かっていないということもあるのだが、あまり温まらず、お湯の中に手を入れて足先を触るとその冷たさがわかる。最近買った集英社新書『心もからだも「冷え」が万病のもと』をその日にあっという間に読み終えて、多少頼りない表現が多く目立ち、残念だったけれど、冷えは体にとって、さらに心にとってもよくないことをあらためて思い知るに至った。まさに冷えは命にとって好ましくないもののようだ。また養命酒を飲み始めようかとか、漢方薬に頼ってみようかとか安易な対症療法を考え始める。安易といっては養命酒や漢方薬に携わっている方に失礼なことで、運動不足を解消して、筋肉をつけたり、食事に留意したりして血流をよくしようとすればよいのだろうけれど、運動を続けることも、日々体によい食事を手作りすることも流され者の僕には到底難しいことなので、まずはやれそうな養命酒や気分次第のジョギングを思いつくのだろう。漢方については何かと気になるのだが、まずは相談や予約が必要ということもあって敷居が高い気がするし、値段も高そうだ。昨日は以前下調べしていた漢方屋を再検索し、行ってみようかと思ってみたものの、まだ重い腰をあげられずに、こうして文章を打っている。そんな僕の、椅子に座っている太ももの上に愛猫のアビーが飛び乗ってきて、さっきからじっとしているのがかわいく、あたたかい。アビーにとっても春になったとはいえまだ寒い日が続いているらしく、昨日から風邪気味なのか元気がないように感じられる。妻は相変わらず朝星夜星とまでいかなくても、朝陽が出てあまり間が経っていない時間に出勤しては、星も眠りそうな丑三つ時近くに帰ってくる日々が続いていて、心身ともに疲れているようだ。このような状態にある二者一描がこれからも仲良く、元気に暮らしていくための活力の元が昨日、食卓に並んだ。妻が手作りした命のスープ・にんじんスープと白身魚のソテーだ。にんじんのもつ甘味が活かされたと手もおいしいスープだったし、あっさりした味わいの白身魚もおいしかった。アビーは残念ながら、スープも白身魚のソテーも、僕らが食べている食卓の上を歩き回って匂いを嗅いだだけで食べることはできない。そのことを拗ねたのか、風邪気味のせいか、夕食のカリカリを多く残していた。僕が妻の、命のスープで温かさを取り戻せ、疲れをぬぐえたように、アビーに何か精のつくサプリメントを買ってきてあげようかな。Hie

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