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2004年9月

キン・コン・カン

 ふた昔強前の僕は、自分は恋愛より結婚に向いているんだろうな、と思っていた。実際、そうなのだと思う。結婚=生活、暮らし、という思いがあって、そういうことをきちんとしたいなと思っていた。恋や愛やの、惚れた、腫れたの、落とすだの、捨てるだのというのはどうも性に合わない。それだけの熱情が自分の中にわきあがってこない。なんか面倒な気がするし、独りのほうが気楽に動きやすいしと思って過ごしてきた。今は結婚して二人になったのだが、多少動きにくくなったものの、暮らしているっていう感じは心地よい。掃除、選択、皿洗い、ごみ捨ては好きだし、お互いに独りになる時間をもてるので、夫婦べったりじゃないのもいい。おそらく連れ合いもそう思っているのではないかと思う。ひょっとするともっとべったりしたいのかもしれないが、あまり主張してこないので、それをいいことに僕はマイペースを保つことができている。相方も僕に輪をかけて自由人気質で、独特の世界観をもっているようなので、ほっぽらかしておいても平気なようだ。趣味も、好みも、価値観もおそらく相当ずれがあるであろう僕らが曲がりなりにも暮らせているのはどういう点がうまく作用しているのだろう。好き、という思いなのか、信頼しあっているということなのか。さておき、うまく暮らせている。ベッドも、ソファも、チェストもない我が家ではあるけれど。

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人生をのっとる

 先日、『テイキング・ライブス』を観てきた。アンジェリーナ・ジョリーが主役ということだけで観に行くことにしていた。観終わって、極々平板なサイコものだった。途中で、「犯人はお前だな」って推測できるし、捜査も、「お主、ぬかったな」っていうのもいただけない。僕自身、ぬかったのは、見たことがある顔なのに、イーサン・ホークだと最後のほうまで気づかなかったことだ。『恋人までの距離』のイメージしかなかったので、雰囲気が違って、気づくのが遅くなった。まぁ、劇場で観るほどのものではなかったかな。ジョリー・ファンなら次回作のほうが面白そう(飛行機もの!?)。

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僕の人生で必要な知恵はすべて猫に学ぶ

猫は私たちを見ている。
 僕は傍観者的とか観察する人とか言われる類の要素をもち合わせている。僕の周辺の様子をよく見ている、よく聞いている。こうしていることでいろんな情報が入ってくる。選択肢や判断基準が増えることは楽しい。その中でその時々にいちばん関心をもったことを行動に起こしている。しかし、弊害もある。多くの情報や多岐に渡る関心は大切な部分で筋が通っていないというか、ないというか。流れくる、溢れ返る多くの事柄の中に気になったものに対して爪と肉球を突き出して捕らえる。好奇心をもっている間は熱中し、集中しているが、それを維持することがなかなか難しく、せっかく捕らえてもそのうち投げ出してしまう。これまでは昼間から猫が眠っているように、数十年という人生を十分に能力を開花させることなく過ごしてきたことを顧みて、筋にあたる、自分なりのミッションやらヴィジョンやらを見出す必要があると思っている。

抵抗は猫の本質的な特性だ。
 僕自身が抵抗を示す極端な例は“謝らない”ということ。容易に謝らないわけは、自分が“誤っている”とは思っていないところがあるから。実際に誤っていることもあるのだが、謝ることに抵抗がある。どう考えているかというと、(あなたからすればそういうことかもしれないが、私からすればそういうことではない)と、独自の解釈や理由があって、相手に対して納得しないことが多い。相手のそう思っていることを伝えることもあるけれども、たいていは静かにやり過ごす。こうして僕は自分が納得してもいないことに対して、謝れと言われても言われなくても、謝りたくないと思っているにすぎない。ある時、奇特な方が『おまえの言っていることは正論だ。正論なのだが、それを押し付けることもできない。正論ばかりを主張せずに、相手に合わせることも必要な場合がある。そうしたこともやっていけるようにしたほうがいい。』と訳がわかったようなわからないような物言いで諭されたことがあった。この時も抵抗はあったが、「ハイ」と言って、相手に合わせて返事をしておいた。

太文字部分は、ジェフリー・M・マッソン『猫たちの9つの感情』より抜粋。1章:ナルシシズム

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ミッション・イン・ポッシブル

 生命保険に入るのは結婚してからでも遅くないという思いで今日まで来た。つい先だって、結婚したわけだが、保険にはまだ入っていない。結婚したという自覚はあるのだが、家庭を築くとか、家庭を守るという決意のようなものが乏しいのかもしれない。こんな思いでいることを伴侶が知ったら、さぞがっくりくるだろう。理想的!と思わせておきながら、かなり浮世ばなれたことにも思いを馳せる旦那だと知ったら、とんだ思惑はずれだと地団駄を踏むことだろう。そう思われたとしてもどうにも生命保険というやつは胡散臭くて仕方がない。自分は死ぬ。残された家族へ金が残る。自分ではその金は使えないのだな。死んでいるから当然だ。それにしても大金だ。車を買うようなわけにはいかない。マンションを即決して買うようなわけにもいかない。胡散臭さを極力排除した上でないと手を出せない。いろんなタイプのものがあるけれど、一長一短があることは否めない。実際、人生におけるミッションとかビジョンとかいったものが明確でない僕が自分にとってどういったタイプの保険がふさわしいのか選ぶことができないのは自明の理なのかもしれない。貯蓄的なものがいいのか。でも、年をとって何に金を使う? それに早番死ぬ。いっそ掛け捨てのほうが合理的。でもなんかもったいないような。掛け捨てに入っておいて、一方では貯蓄型で将来戻ってくるくらいの金額を貯蓄すれば、掛け捨てでもいいってことかもしれない。そんなことを考え始めると、保険というなの迷宮に迷い込んだ気持ちになってくる。それでも出口を求めて久しぶりに少しは勉強してみる必要が出てきたようだ。

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マーキングとテリトリー

 ここのところ、テレビをつけると何かと血液型について取り上げている番組に出くわすことが多かったように思う。血液型がすべてではないにしろおもしろおかしく参考にもなる。ぼくんちにはB型とAB型がいる。以前から伝わっていることだったけれど、B型は変わりものらしい。AB型も変わりものと呼ばれるけれど、謎めいている、得たいがしれないという傾向からしてそう言われるように思う。
 B型は相当に自由奔放らしい。気分転換もうまいらしく、あまり深く気にとめることがないようだ。ぼくんちでは、B型の洗濯物を取り込んで、部屋の片隅に放置しておいてもしばらくの間、片付けられることはない。気にならないようだ。ダイニングのB型が座る席周辺はいろんな物が散乱している。雑誌、届いた通販グッズ、バッグ、ようやくたたんだ洗濯物など様々なものが。でも気にならないらしい。AB型はそんなうちのあちこちを歩いていると、そんなB型のものが気になる。そこで片付けをはじめる。取ってつけたようなマガジンボックスに雑誌類をしまい、リモコンをしまい、たたんである洗濯物をB型の化粧ボックス付近に運ぶ。それだけでも十分片づいたように思えるけれど、そうするとそうでもないところでも目立ちはじめ、気になりだす。白木のフローリングに落ちた髪の毛はよく目立つ。ダスキンしても次から次へと髪の毛は落ち、目立つ。B型はおそらくそう気にならないのだろう。AB型はうちで過ごしていたり、帰宅したりするとなにかその辺が気になりだす。するとすぐにダスキンしだす。だからB型はだいたい部屋の中がきれいな状態とみていることが多い。でもB型はそのことに気づいているのかどうか。そして気づいていないこともひとつ。AB型は自分のテリトリーを守ることには長けているらしい。AB型は自分がよく使う、よく通るスペースのところだけダスキンしているということ。まずはダイニング兼居間、廊下、廊下の続きとしての洗面所とキッチン、そしてパソコン部屋。和室はAB型にとってもあまりゴミは見えていないのか掃除が行き届かない。残る一部屋、主にB型の服が置かれている部屋はまったくと言っていいほど、AB型は手をつけない。ここしばらく掃除をしていないが、どうなっていることだろう。このことにB型は気づいているだろうか。すごいことになっていなければいいが…。思うに、部屋のあちこちにB型のものが点在しているのはB型としては一種のマーキングをしているのではないかとさえ思うに至った。そのマーキングが気になるAB型は自分のテリトリーと考えるスペースだけB型のマーキングをはずしていっている。それぞれの特徴が出ている光景にひとつだと思う。マーキングするB型とテリトリーを守るAB型。こうしてこの繰り返しが僕んちでは繰り広げられている。

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薬の不思議

 今、僕は耳周辺に効くという薬を飲んでいる。主に仕事中に時々、左耳が詰まったような感じになり、人の話が聞き取りにくくなるという症状がここしばらく続いているから。以前から時々この症状はあったのだが、今回は一向に直らず引きずっている。時には相当な不快感や違和感を感じ、何らかの影響か喉も不調になってくる。なので医者に行ったけれど、特に耳には異常はないらしい。疲れがたまっているのかもしれません、で片付けられてしまった。疲れ、ているとは自覚していないのだが、夏の暑さやら休日が少なくなっていることやらが多少なりとも影響しているのかもしれない。
 言われたとおり薬を飲んでいる。久しぶりにたいしたことでもないのに病院に行き、薬まで飲む羽目になってふと思った。薬っていうのはどういうメカニズムで効くのだろうかって。水で薬を飲むと一旦は胃へ行くことになる。そこからどうやって耳周辺に作用していくのだろう。胃に到達した薬は溶け、成分が血管を通って、耳のほうへ上がっていくということなのだろうか。胃からUターンしていくだけってことがありうるんだろうか。全身を巡った挙句に耳周辺にも届くということなのだろうか。そしてそもそも耳に効く薬だ、成分だっていうのをどうやってわかったんだろう。考えてもわかりそうもないし、これから薬の勉強する気もないので、言われたとおり薬を飲んで、耳の症状の様子を見ることにする。

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『アフターダーク』

 夜の暗闇の、ダークな世界を今も歩いているのだろう、夜回り先生・水谷さん。先日、私たちの視点は、テレビ放映されていた水谷先生の講演会&ドキュメントにあった。これまでにも先生の本は表紙とタイトルで気になっていた。でも、手に取ることさえしていなかった。講演の様子を観たあとの今日、本屋で手にしてみた。ぺらぺらしてみた。結局、買うには至らなかった。講演での先生の表情や言葉や様子のほうが私たちの心に投げかけるものが多かった。ものすごい世界に、ものすごい人がいることを知った。先生の中にあるものすごいエネルギーを感じることができた。本を読むより、講演会のDVDを見聞きしたほうが伝わってくるように思え、本を買うことはやめた。
 講演でも、本の中でも『叱ったことがない』と言っていた。それは本当だろうか? 言葉のあやで、怒ったことがない、の間違いではないのだろうかと思った。怒ると叱るじゃ、訳が違う、これはよく言われることだ。怒ることをコントロールすることが叫ばれ、きちんと叱ることは推奨される。それでも先生は叱ったことがないという。叱ることすらままならない人間を相手にしているということなのだろうか。僕にはその辺がよくわからなかった。いつの間にか先生がテレビの中からこちらの世界に来ていた。「いんだよ」。そうなのかな、よくわからないままでもいいのかな、そんな気にさせるほど、心のこもった声で、「いいんだよ」って投げかけてくれるような気がする。でも僕はわかりたいと思っている。夜明けまでにはまだ時間がある。少し眠ろう。このまま眠りつづけてしまうことになるかもしれない。目覚めることになって、ダークな時間が過ぎた夜明けからまた一歩ずつ歩き出していこう。

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ふたりごと

家庭、夫婦におけるミッション、ヴィジョンとはなんだろうか?

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