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2004年3月

三省堂書店本店

 久しぶりに車で出かけ、久しぶりに神保町の三省堂書店に行き、1階のレイアウトが大幅にかわっているのを目の当たりにして、久しぶりにブログを書いてみる。車に乗るのがご無沙汰してしまうのは、電車およびウォーキング通勤をしているからで、三省堂書店本店をご無沙汰してしまうのは、行っても惹かれる本に出遭えなくなってしまったからで、ブログをご無沙汰してしまうのは、春休みと年度末が一緒に来て、盆と正月が一緒に来てしまった感じで仕事が忙しいからです。忙しくなると、すべてのことが停滞します。本を読まなくなる。本の一節にインスピレーションを膨らませて、ブログを書いていたので、それができなくなる。サプリメントを飲まなくなる。忙しいときこそ、栄養つけて頑張る必要があるのだけど、それすら忘れてしまう。落ち着いて、ブログができるのはやはり春休みが終わってからでないと難しそうです。明日は予定より早めに出勤して、総額表示の詰めの作業をする必要があります。そうこうするうちに結婚式の招待状ができてきて、誰に送るのかを両親と相談する必要もあります。この状況だとまともに文章を書けるのはもう少しあとになるかもしれません。少し前までは毎日のように書けていたのですが・・・。いったん、止まってしまうとスイッチが切り替わったかのように、状況が一変してしまうのが『私の悪い癖』です。

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もう、いないんだなぁ・・・

火曜サスペンスの取調室の水木さん、躍る大捜査線の和久さん、法廷荒らしの猪狩文助さん、そしてドリフターズの長さん。今回は高木ブーさんの立ち居振舞いを見ていたら、ぐっと悲しみが湧いてきた。どうかゆっくり休んでください、長さん。

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スゴロクな、「だめだこりゃ!」

 私は今、小指を立てています。そして一言、
「私はこれでそこでの挙式をやめました」。
その方との出遭いは心と記憶の外に追い出すことができない、忘れられない出遭いとなってしまいました。まったくもって、「だめだこりゃ」です。スゴロクでたまたま出遭ったマスには『振り出しに戻る』と書かれていたに過ぎません。これほどまでに月日という名のマスを進んできたというのに・・・。別に億万長者や、王子様・お姫様になりたかったわけじゃない。普通に、楽しく、厳かに結婚式を挙げたかっただけなのに・・・・・・・・。「This is a 人生」「なんだ、ばかやろう!」・・・・・「それじゃ、次、いってみよう~」
           nifty トラックバック野郎のお題「忘れられない出会いと別れ」

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誂えた服を身につける

 誂えた服を身につける、なんてことはこれまで考えたことがなかったけれど、自分の体型に合わせて作っていただくスーツというのがあったら、それはそれで格好がいいかな、なんて思い立ちます。とはいえ、普段、スーツを着る機会がなく、仕事でも制服があるので、通勤はもっぱらカジュアルスタイル。惑わないはずの年齢に近づく中、きちんとした身なりを心がけねばなぁ、なんて思い始めているのも事実。ただ、今は通勤時にウォーキングをしているので、スーツでというわけにもいかない。なんだかんだいっても堅苦しい服を着たくないというのが本音ということでしょう。
 もし誂えるとするならば、和服(着物)ですね。最近はちょっとした着物ブームといってもいいくらいに何かと話題になっていますね。しかも殿方たちにも飛び火している感じが見受けられます。男性向けに『着物を始めませんか?』的な本や雑誌をよく見かけます。私もそそられて、2冊くらい持っています。そこで紹介されていた銀座の『もとじ』という店も通りすがったことがあります。どうも敷居が高くて店に入るまでにはいたりません。着てみたい気はするのですが、着物で普段の生活を送るっていうことがうまく想像できず、わずらわしさがあるようなことが先に立ってしまい、及び腰になっています。おまけに、『着物の場合には、着る人の性根が座っていないと、よく見えることはない』なんて言われるとなおのこと引いてしまいます。また、現代的なマンションで、フローリング中心の住まいの中、和服で過ごすというのは動きにくいような気もします。昔の人に言わせると、(着物は部屋着で、くつろげる)のだそうです。そして、着物を着ることによって、現代の毒された欧米化を抜け出す、日本古来の文化の良いところを見直す機会にもなるというのです。最近は本当にせちがらい世の中になってしまい、犯罪も凶悪化、食事もコレステロールのてんこ盛り、仕事においてはストレスがつき物、ということを鑑みれば、和服を身にまとうことで今の暮らしに一石を投じ、日本やら社会やら己やらについて考えてみるというのも一興かと思えます。
                             山崎武也『古風の研究』を読んで④

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挙式において着る衣服

 結婚をする私は間近に第1回目の打ち合わせを控えています。同じ日に私自身の服を見に行くことになっています。先般、挙式をあげる会場・八芳園で2、3着を着てみたのですが、私も、周りもピンとくるものではなかったのです。彼女の希望としてはフロックコートを着てほしいとのこと。背丈のある私にはよく似合うと思うから、というのが主な理由らしい。そのときにはロングタキシードも着てみました。どちらの様子を見ても、似合っているけど、ピンとこない。ピンとこないんだけど、似合っている、というわけのわからない状態に陥り、決めるには至らなかったのです。
 時間はあっという間に流れ、式については何も話し合われることなく、何も決まることなく、打ち合わせに行ってみないとどのように進めていいのかわからない状態で過ごしています。そんな折、今、読んでいる『古風の研究』に、タキシードはユニフォーム、という項目がありました。辞書的に、タキシードは男子の夜間用略式礼服だということです。丈が長かろうが、短かろうが、タキシードはタキシード、元々(今も!?)、夜用のものだったらしいのです。昼間に挙式する私には、場違いというか、時違いという代物なのかもしれません。このことが気になってネットで検索してみると、今では昼用の礼服として定着しつつあるようにも書いています。いくつか読んでみましたが、表現的に微妙、曖昧なものがあり、実際のところはよくわかりません。フロックコートに至っては、近代における農作業着が発展して、礼服となり、廃れていったものとあります。これらを読んでいくと、(おいおい、俺は何を着たらいいのやら)と考えあぐねてしまいます。古風に執着するなら、片や夜間用、片や農作業着、ということになります。前著にもある『昔からのルールにこだわる必要はないという考え方もある。…(略)…しかし、ルールはルールだ。』というくだりを読めば、なお一層頭を抱えます。また、『元々は正式な晩餐会などに着ていく「ユニフォーム」だ。…(略)…いわば、自分を大勢の中の一人に埋没させるためでもある。』ということであれば、新郎たる私は目立っていいのだろう。それならば、夜用だと言われようが、ロングタキシードでも、農作業着に由来していると思われるフロックコートでも、来賓が着てくることはないことからしても目立つわけで、どちらを選んでもいいと言うことになろう。とはいえ、花嫁より目立つわけにもいかないので、私は着せ替え人形となって、彼女のお好みを尊重しつつ、自分のウェアを決めることにしよう。
                          山﨑武也『古風の研究』を読んで③

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あなたの戦争はもう終わっているか?

 この世にあるすべての仕事はサービス業に通じる。そう考えています。

 サービス業はやがてホスピタリティ(おもてなし)の精神へと昇華していきます。
しかし、いまや生きとし生けるものすべてをもてなすのとは対極の戦争を繰り広げていることがいかに多いことか。

 戦略・戦術・戦闘・ターゲット・攻略・ローラー作戦...

 もうそうした武器は捨てよう。

 「戦略」のかわりに、「脚本」を考え、
 「戦術」のかわりに、「演出」でシーンを創り、
 「戦闘」のかわりに、「表現力」や「パフォーマンス」で、
人と人との間に感動を通して、心を通わそう。

                 感動は設計できる
                 平野秀典『儲けを生みだす表現力の魔法』を読んで

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故きを温ねて新しきを知る 【食】その2

『お互いに理解を深め親しさを増し結束を固めようと思ったら、できるだけ一緒に食事をする機会を持てばよいのである。』 (山﨑武也『古風の研究』を読んで②)

 人と一緒に食事をするたびに、お互いの絆が強くなっていくのだそうです。今の時代、仕事や学校、子育てなど人それぞれ多忙を極め、家族が一緒に食事をするということは少なくなっているのでしょう。私も昔から家族全員で食事をしたというのは多いほうではないでしょう。父自ら「俺の仕事は朝星夜星だからな」と言って、星が出ている頃に出勤し、夜、星が出ている頃にようやく帰ってくるという生活が昔と変わらず今も続いています。食卓を囲むのは母、妹、私ということが多かったです。それもやがて一人一人になっていきました。母と私がいて、私が食べる。母と妹がいて、妹が食べる。父が帰ってきて母も食べる。父がよほど遅いときに母はひとりで食べる。そのような具合になっていきました。それでも元々、私たち家族は一人で行動する気質が備わっていて、このことも極自然に受け入れていたように思えます。絆を強くするということには至らず、ある種の信頼感といったものはあったと思います。父は、自分がいなくても母がきちんと面倒を見ていてくれる、あるいは、子どもらは、父がいなくても自分のことは自分でするといったような信頼感が(実際には、父がいなくてホッとしていることが多かったのですが…)。そういうこともあって私の家族はドライなところがあります。
 今は私も新しい自分の家庭を築く一歩を踏み出していくなか、共に食事をすることについて心していく必要があるのだと思いました。私の勤務が不規則なため、一緒に食事できるのは週に2~3回くらいです。場合によっては、彼女にも会議やら接待やらで遅くなるときがあり、さらに少なくなることもあります。当初は(これはこれでいいな。お互いに時間が取れて。毎日、食事をつくる、つくっていただく、なんてことが続くなんていうのは、仕事をもつ女性にとっては大変なことだろう)と思っていました。毎日よりも週に2、3回のほうがお互いのためになるんではないか、と。しかし、一緒に食事をとるたびごとに絆を深めていくことになるという文章に触れ、もっと多くその機会をもつべきなのだろうと考えさせられます。ましてや私の職場の上司を見ているなかで、家庭崩壊していることがもれ伝わってくると心配になります。やがて生まれくるかもしれない子どもと、私が帰宅後に家族で食卓を囲み、絆を深めていけるのか。日曜日には行楽に出かけ、手作りのお弁当などを分けあって食べることで家族関係を築いていくことになるのか。
『同じ屋根の下で寝るだけでは十分でない。せめて、一日一回夕食を共にするのは家族の権利であり義務である、と考えるべきだ。』
 あるいは、
『母親なり妻なりがつくった弁当には、一緒に食事ができないから「せめて私のつくったもの」を食べてほしいと思う感情がこもっている。一家団欒の場を演出しようとする気持ちが伝えられるのだ。』
 と、このような考えや思いがあると知り、まだ先のこととはいえ、身に迫る思いがします。できるだけ努力をして、機会をつくり、家族が一緒になって家で食卓を囲むようにしてみることが大切なことなのだと胸に染みてきます。

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故きを温ねて新しきを知る 【食】

『食べるというのは極めて動物的な行為であるから、さらけ出して人に見せるものではない。』 山﨑武也『古風の研究』を読んで①

 私はグルメというわけではないし、こだわりがあるわけではありませんが、食べることは好きです。おいしいものをいただきたいし、好きなときに、好きなように食べたいと思っています。その食べるという行為は、生きていくうえでは欠かせない、原始的なものです。人間的というよりも動物的といってよいのでしょう。大きく口を開けて、頬張れば、口の中や喉の奥までのぞかせることになります。場合によっては品を欠いた振る舞いのように見えるときもあります。私の父はものを噛む際に唇をしっかり閉じないでいるため、音が漏れてきます。(そんなに音を立てて、自分で気がつかないのかな)と思うほどの音がたちます。一緒に食事をするときは気になってしかたがないです。本人にとっても周りの者にとっても気持ちのよいことになるはずですが、進言することに二の足を踏んでしまっています。長年の癖で、言っても直るだろうかという疑問もあります。というわけでいつも静観して過ごしています。やはり親しき仲といえども、人前ということを少しでも意識することで、気持ちよく、おいしく、食事をいただくことができるのだと思います。これに関して、読んでいて面白く感じたのは、
 『人の家に招かれて食事をご馳走になるとき、主婦は料理をしたりサービスをしたりするだけで、食卓に加わることはなかった。もてなしをするのに忙しいという口実であったが、実際には人前で食べるところを見せないためでもあった。』
というのです。【へぇ】ボタンがあったら、数限りなく押しているところです。

 私自身のことで言えば、私も幼い頃は、「食事はきちんと座って、行儀よくして食べなさい」と言われていたのだろうと思います。箸でお茶碗を叩いたり、ものをこぼして辺りや服を汚したりして、咎められていたのでしょう。大人になった今では、立っていたり、歩いたりしているときにものを食べていることもあります。これなども品を欠く行為といえるのですね。また、家で食事するときですら、テレビを見ながら、あるいはその日にあった出来事などを話しながら、食べていることだってあります。これについてもあまり推奨されることではないとのことです。食事をいただけるということの有り難味をも十分に味わえるには至れない振る舞いなのです。
 『本当に食べ物を楽しもうと思ったら、口はしゃべることに使わないで、もっぱら食べることに使うべきだろう。』(同書より)
 もっとも私も彼女と外食するときは、家で食事をするときよりも静かに黙々と食べています。家で食べないメニューだったり、味付けが違ったりすることもありますが、何よりおいしいので、自然とそれを堪能したいという思いが出ていて、そうなるのだと思います。料理を生業としている人たちがつくったものですから、しっかり噛みしめ、味わいたいと思うのが自然でしょうね。もちろん家で彼女がつくってくれる料理もおいしいのですが、親しい仲、二人しかいない空間での食事なので、おしゃべりをしながら食べています。そうすると食べ物をこぼしてしまったり、飛ばしてしまったりということが時々起きてしまいます。やはりこれはいくら親しくても少し恥ずかしい思いをしますね。それに家での手料理というものは、より直接的に愛情がこもっているわけですから、こちらのほうこそもっぱら食べることに専念して味わうべきものなのかもしれません。

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一人の時間 あのしずかな場所

江國香織『いくつもの週末』を読んで⑤
 時折、彼女は一人の時間に何をしているのだろう? 何を思い、どんなふうに過ごしているのだろう?と考える時がある。さみしい思いをしているのか、のびのび羽根を伸ばしているのか。私が一人のときは、思いきりあちこち出歩いているか、どっぷり家の中に浸かっているかのどちらかである。最近は後者が多い。以前よりはグッと本に惹かれることはなくなったし(とはいえ、彼女は『こんなに読んでいない本がたくさんあって、いつ読むのだろうか、読み終わるのだろうか、と思っていることだろう』)、音楽においても好きなアーティストが活動を停止してCDを出さなくなった。だからもっぱら出かけていたところに行く用がなくなったというのが実情だ。というところからしても、私は本当に狭い世界に生きてきたのだと改めて思う。出かけるところといえば、神保町か、秋葉原か、ってな具合だ。また観劇も、仕事の都合で行かなくなったというのは当初の話で、今はめっきり(行こう!)とすら思い浮かばなくなってしまった。すっかり出不精になった。生活に溶け込んできたとでもいうことなのだろうか。それはそれでいいのだけれど、埋没だけはしたくないという気持ちは残っている。それでも私が一人の時間は自分の中に埋没していると言えるのだろうな。それがまたとても大切な時間ではあるのだ。この時間がなくなってしまうことを考えると空恐ろしい。きっと自分が自分でなくなってしまうかのように感じることだろう。この時を使って、リフレッシュして、多様な時間と場面に備えていくのである。表面上はつんけんしているように見えていても、裏側にある弱さを隠す虚勢でしかない。ちょっとしたことで心が揺れてしまう。それはそれは深く沈みこんでしまう場合もある。浮かび上がらせるには一人の時間が必要なのだ。そういう時間があっての二人の時間だ。うっかりすると、二人でいる時間はまったり、べったり、ごろごろ昼寝ばかりしていそうなほどくつろいでしまうこともある。そのときの私はいつになく開けっぴろげになっていることだろう。このことはきっと彼女にも多少は伝わっているものだと思う。最近、少し違ってきたのは、多少、低体温の傾向が強まったことだろう。これまではできる限り二人でいる時間をもとうとしていた。今は二人でいられる時間でも一人の時間を過ごすことも増えてきた。これは彼女が間違いなくテレビっ子なところに負うのだ。家にいる時間とテレビのついている時間はほぼ同じではないか、とさえ思える。これはニュースやドラマに限らず、ゲームで使うっていうのも含まれる。私はテレビをつけて過ごすことはほとんどない。見ててもあまり面白くないから、パソコンに向かっているか、本を読んでいるかしている。だからテレビのある部屋から遠ざかる。私も一人の時間が必要なように、彼女にもきっと必要なんだろうと思い、そっと離れる。それにしても二人でいられるのに別々に過ごさなくてもよさそうなものだけれど。こういうところのバランスが難しいなと思う、今日この頃だ。

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いくつもの風景が折り重なり

「結婚してから生活が色つきになった、と思う。なにもかもがいきなり色つきになり、それはとてもたのしいことであった半面、同時にまた少々落ち着かないことでもあった。…(略)…
 誰かと生活を共有するときのディテイル、そのわずらわしさ、その豊さ。一人が二人になることで、全然ちがう目で世界をみられるということ。」

 江國さんが言うように、私たち二人の生活が色つきになったかどうかはわからない。間違いなく楽しくなったし、落ち着かないことも間違いなく起きるようになった。何かで読んだのだと思う、結婚はいろいろなしがらみをも含めて受け入れ、暮らしていくものだと。確かにそうなんだろう。好き嫌いを言っている場合ではないのだが、そうしたものにはあまり積極的には臨むことはないだろう。私はこれまでとても狭い世界に住んできた。結婚することで、独りの世界が二人になった。とりたてての意味はないが、文字通り、“二人”の世界で過ごせたらいいなと思っている。これまで一つずつの世界だった二人が一つの世界になり、そこから二人の目で世界を見つめていく。そのシンプルさを求めたい(そうはなかなかいくまいが…)。私は私の世界の外にそれほど多くのことを望まない。心地よく過ごせるだけのわずかなものがあればいい。唯一、欠かせないものは一緒に暮らしている彼女だ。彼女がいなくなったらきっとものすごく悲しいだろう。紺色の世界に、ワインレッドが加わった感じだ。そういう意味では色の数は増えたかな。でも、この二色は混ぜないほうがいいな。それこそものすごい色になりそうだから。個々固有の色(カラー)をいろんな場面で奏でていけばいいのだと思う。

「私たちはあのころ別々の場所にいたけれど、いつも会ってはおなじ風景をみた。別々の場所にいたからこそ、と言ってもいいと思う。いま私たちはおなじ場所にいて、たいていちがう風景をみている。…(略)…
 世界はいつも見事に多重構造だ。私たちの小さなマンションのなかにさえも、いくつもの風景が折り重なり、いくつもの時間が流れている。」

 結局のところ、世界はいつでも多重構造なのだろう。私たちの世界と他の世界、私たちの世界の中の、少なくても二重構造(=ふたり)、私たちそれぞれの、心の多重・多元的構造。どうしたって一筋縄ではいかないようだ。わずらわしさやしがらみといったこと以上に凌駕するものが存在するのだと思う。時には嫌気がさしてしまうかもしれない。諦めたくなるかもしれない。くじけそうになるかもしれない。それでもそれらと相対していくことが必要なのだと思う。その世界の中で、あがき、もがき、取っ組み合って、奮闘する。そこに見えてくるものがあるかもしれない。何かをつかもうと一生懸命に努力していくなかできっと何かがつかめるはずだ。苦労するだろうけれど、どうにかやっていく、何とか頑張っていくことが肝心なのだろう。こだわりと淡白の二重構造の私にやっていけるだろうか? 無性に逃げ出したくなるときだって、本当にある。いや、それでもやっていかないといけないのだ。生を受け、生きてきて、これからも生きていく限りにおいては。そして、結婚して、二人、暮らし、過ごしていくには…。結婚はstruggle。

struggle 【プログレッシブ英和中辞典 第3版 小学館 1980,1987,1998】
1 もがく,あがく;(…と)取っ組み合う;(…しようと)争う,戦う
2 (…しようと)一生けんめい努力する,奮闘する
3 (…を)苦労して進む;(苦労して)どうにかやっていく,なんとか頑張る

                         (江國香織『いくつもの週末』を読んで④)
 

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「ごはんは?」「ないの」「どうして」

会社から帰った夫は、空っぽのテーブルや整然とした台所をみて不思議そうな顔をして、ごはんは? と訊いた。
…(略)…
 「ないの」
 私はこたえた。
 「どうして?」
 「つくらなかったから」
 』 (江國香織『いくつもの週末』を読んで③)

 私のうちのごはんはいつもだいたいてんこもりだ。二人して食べることが好きなためか自然とそうなっている。私自身が一番てんこもりになるのは鮪の刺身がおかずの時だ。実家で暮らしている時はいつもお茶碗2杯は普通だった。多い時は3杯、あるいは2.5杯くらい。二人で暮らすようになってからはどんなおかずの時も1杯にかわった。最初は物足りない気がしたが、今では慣れてきた。それでも1杯では多少、足りない気持ちも残っているので、夕食までに軽い間食をしているのが常だ。これは実家にいた時も同じだ。菓子パンを食べたり、ナッツやチーズを食べたり、羊羹を食べたり。そうしておなかを落ち着かせる。落ち着かせないことにはいても立ってもいられない。実家にいた時の夕食の時間はというとだいたい17時だったが、今では19時半、あるいは20時を超える場合もある。以前の私からすると想像を絶する域に到達している。夕方になると体内時計が夕飯の時間だとセットされているかのようにお腹が減ってくる。あと3時間近くも待たないとメインディッシュにありつけないというのはしんどいので、つい間食をしてしまう。私が不規則な勤務で、彼女が9時5時で、通勤1時間強となると、帰ってから食事の支度をするとどうしてもそのくらいの時間になる。奥さんという役割はとても大変なことだと思う、特に外で働いている人は。いや、これだけだと非難ごうごうだから、子供を抱えている方も大変だ(そう、付け加えておこう)。一緒に暮らし始めてそのことが実感できるようになった。なので時には、お腹が落ち着いて機嫌のいい時や、私が休みの日には、『男の料理本』なるものを取り出して、えっちら、おっちら、食事をつくることもある。いい出来の時もあるし、そうでない時もある。なかなか楽しいものだが、彼女が帰ってくる時間が読めないので、多少戸惑うところはある。料理はやはり温かいものは温かく、冷たいものは冷たく食さないとおいしいものもおいしくなくなってしまう。ある程度の時間を予想しながら、仕上げにもっていく。時にはあっという間に仕上がってしまって、温めなおすということもある。時には彼女からのメールで【急に会議が入って、20時を過ぎます。先に食べてください】などと連絡が入ることもある。幸い、私が料理をつくった日にそうした連絡が入ったことはないが、もしもそういう時がくれば、とても残念な気持ちになるだろう。連絡が早ければ手を打つこともできるが、現状では連絡が入ったときは、時すでに遅し、の場合が多い。おかずをつくってもらおうとご飯だけは炊いて待っていて、そういう連絡が入ると、打つ手が限られる。お惣菜を扱う店が閉っているか、売り切れているか。冷蔵庫の中には納豆、ウィンナー、ベーコン、卵という朝食メニューが顔を覗かせているだけ。しかたがないので、夕飯も朝食と同じメニューを食べることになる。あと一歩、連絡を早くくれたら、ご飯を炊かず、外食することもできたのに…と思う時もある。とはいえ、彼女がつくる料理が楽しみで、つくっている姿も手際良く(時には「あわわわわ」と叫んでいるけれど)、出来上がりはいつもてんこもりで、しかもおいしいので、一緒に食事をとれるのはうきうきする。そうしていつまでも、それこそおいしい時間を二人で過ごしていきたいものだと思う。

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感情が混乱のもと

感情が混乱のもと(『感じない子ども こころを扱えない大人』を読んで④)
なぜ、混乱のもとになるかといえば、人間は矛盾する感情を同時に持つことがあるためだ。

 たとえば、家族の者が「お風呂に入ろうっ!」と何気なく独り言のように言って、入る。湯船を出ると、お湯が少なくなっていて、別の者が入ることに気を配って、水を補充し、沸かしなおしてくれたとする。ついでに声をかけて、「お風呂を沸かしなおしておいたから入ったら?」と伝えに行く。しかし、別の家族の者はすでに入浴を済ませていて、「もう入ったから、入らない」と返事をする。「えぇ、一言、言ってくれたらよかったのに。沸かしなおしちゃったじゃない」と気分を害してしまい、怒った表情をしている。言われた者にすれば、てっきりそのことは知っているものだと思っていた。バスルームは床をはじめ、壁などあちらこちら濡れていたのは気づいたはずだし、それにシャンプーや石鹸の香りを漂わせていることにも気づいているものだと思っていた。そのときに限っては気づいていなかったようで、細やかに気を配ってくれたのだ。だが、その気配りも無駄になってしまった。だから気分を悪くしてしまったのだ。こうして「言ってくれたら…」と(言わなくてもわかっているだろう)というコミュニケーション・ギャップが生じてしまった。一方は怒りという感情に腹立たしいし、確認すれば良かったと反省する気持ちもあるし、一方は怒られて気落ちするし、また、どうして怒られなきゃいけないのかわからないし。(もし言い返しても気まずくなるだけだろうから、何も言うまい。でも釈然としない気持ちは残ったままだ。ここは我慢すればいいか)とやり過ごすことになる。もやもやとしたままで。
 この場面でもいろんな感情がうごめいている。ネガティブな気持ち・怒りを表したほうも気分がよくない。押し黙ってしまったほうもネガティブな気持ちを言葉にできないままに混乱した状況の中、釈然としない気持ちが取り残された。お互いがみずから気持ちの中を蝕ませて終わってしまった。ここでお互いが気持ちをさらけ出せていれば、もう少し違った展開になっていたのだろう。しかし、実際の場面ではなかなかそううまくやり取りできるとは限らない。日頃から意識していても難しさは変わらないだろう。それでもまず、自分の気持ちに気づくこと、正直になること、そしてその気持ちを率直に伝えることが大切なのだと思う。そうすることで、自分も、相手も傷つき、心を蝕むことなく、お互いにわかりあえることや見えてくるところが多くなっていくのだと思う。矛盾する感情を持ち得る私たちは少しでもそれら気持ちをほぐしてシンプルに素直に表現することで昇華させ、関係を築き、発展させていくことが望ましいのだと思う。

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二人は時々途方もなく淋しい

「夫は散らかし屋だし物事に無頓着で感情を軽視しすぎる(と思う)し、私は我慢弱く感情的で譲歩というものを知らない(と夫は言う)のだ。…(略)…
 二人はときどき途方もなく淋しい(一人の孤独は気持ちがいいのに、二人の孤独はどうしてこうもぞっとするのだろう)。」
(江國香織『いくつもの週末』を読んで②)
 私は気になりだすとすぐに整理したり掃除したりする。物事には執着しないようで、こだわりがある。感情の起伏は激しいと思っているけれど、それをなかなか表にあらわさない。そう思っているのは本人だけで、意外に複雑な気持ちの揺れや動きが周りにはわかってしまうらしい。一方、彼女はしっかり考えをもっていて、当然しっかりした行ないをして、安心して一緒にいられる。こういうと気を悪くするかもしれないが、しっかりした考えにのっとっているから、発する言葉がストレートだ。もう少しオブラートに包んでくれればいいのに…と思うけれど、私はしょっちゅうグサッときながら、グッと我慢してしまう。そう、考え込んで、黙ってしまうのだ。考え込むと、いろんな角度から、いろんな情報を集めて、いろんな答えを探り出し、身構える。こうなってくると思い出す、一つの檻の中に別々の生き物が暮らしているということを。私は時々、二人の孤独を感じて、沈み込む。独りの孤独はとっても楽しいのに、二人の孤独はとてつもなく寂しいし、空しい。孤独を埋めるために二人寄り添っているところもあるのだけれど、二人でいることで孤独をまざまざと感じてしまうというのは皮肉だ。私は元々独りが好きで、孤独には慣れているつもりなので、とりたててその孤独を解消しようとは思わない。生を受けたときも、生を活きている今も多くのものとつながっているものの、最期は独り逝くのだから、結局人は孤独な存在なんだと割り切っている。孤独はつきもの。いちいち気にしていても仕方がない。でも、二人の孤独は傷ついて、どうも不快だ。どうせ孤独であるとしても、二人の孤独は感じずに、独りの孤独を味わっていたい。そのためにも私は私なりに自分の気持ちを表現していく必要があるのだと思う。

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虚ろな裸

私は不意つく言葉に不安を感じてごまかすために口をつぐみ、城に篭ってしまう。
きっとそれは卑劣なやり口なのだろう。そう思われても仕方がない。
それはそれで仕方がない。それが私のスタイルだ。ちっぽけなprideを守るために。
根性は貧弱。満ち満ちた無個性という個性。それでもなぜかそれに執着する姿勢。
甘やかされた時代に生きてきた世代のひとり。
流れの中で流されながらもどこかいきがって強がって生きてきた。
でも、今、そしてこれからは明日につながる新しい絆で変えたい
この歌で自分を取り戻す

夜に彷徨う魂に断罪を・・・・・・(そう、彷徨う貴男の魂は罪)
意志を曲げない戦士に喝采を・・・(頑なまでの貴男の想いは真実?)
私は歌う明日のない顔に・・・・(布をかぶった男女を描くマグリットの絵のように)
自分を信じた今に感動を・・・・・(貴男が信じているものは何? 貴男自身?)
同じ心持つ者に成功を・・・・・・・(それで明日につながる新しい絆を結べる?)
私は願う明日へ向く顔に・・・・・(布をとおして男の顔が不敵に微笑む。 貴男?)

明日につながる新しい絆で変えたい。この詩で自分を取り戻そう。

la la la・・・・明日のない顔に
la la la・・・・明日へ向く顔に
                  Vo Vo Tau裸 ~Nude~』を聴きながら

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幸せを感じるためのオペラ会食

 よく散歩に出かけている葛西臨海公園。そこに建っているホテルシーサイド江戸川でのイベント情報を見かけました。このホテルでは時々、賞味会と称して値ごろ感のある食事会を開いているのですが、オペラを聞ける、というのは初めてだと思います。どんな雰囲気になるのでしょうねぇ。いずれにしても私は食事会に参加したことがないのでさっぱり見当もつきません。イタリア料理やオペラが好きな方で、お近くの方は行ってみてはいかがでしょう。以下はその内容(携帯画像丸写し)です。

イタリア料理とオペラ“アリア”のゆうべ
 日付:2004年3月27日(土)
 時間:18時~20時
 人数:40名様(先着順)
 費用:¥10,000(消費税・サービス料込み)

“恋あり、涙あり、メルヘンあり・・・” イタリアを中心にヨーロッパの長い歴史に育まれた音楽とドラマの総合芸術「オペラ」。早春の一夜をHotに! “マンジャーレ(食べる)、カンターレ(唄う)、アモーレ(恋する)” イタリアンな大人のための一夜をご堪能ください。厳選されたイタリアワインとともに当ホテルのスペシャル・イタリアンディナーを味わいながら、才能豊かな新進オペラ歌手の迫力ある歌声をお楽しみいただきます。

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歩み寄るということをあまりしない

「私たちは歩みよるということをあまりしないので、おなじ部屋のなかにいてもべつべつのことをしている。一つの檻に入ったべつの動物みたいに。」(江國香織『いくつもの週末』を読み始めて)
 本来、人間というものは複雑な、心の動きをするものかもしれませんが、私も他者と歩み寄るということをあまりしない性質だと思います。理想としては、水がいろんなふうに姿をかえるように自然体で過ごせればいいなと思っています。しかしそうはなかなかいきません。こだわりがあるというか、我が強いというか、非を認めないというか、謝らないというか。
 私と彼女においても好きな音楽も好きな食べ物も、好きな映画も好きな本も好きな過ごし方も全然違います。全然違ってもかまわない、と思っていたし、違うほうが当たり前とも思っていましたが、それでも時々、同じだったよかったのに、と思います。ある意味、不気味かもしれませんが、感じ方も、表現方法も、行ないも、同じとはいかないまでも、少しでも多く似ていたらいいのに…と感じることがあります。結局はお互い様なのでしょうが、(俺ならそうはやらないな)とか、(そういうふうには感じないな〉とか、(もっと違う言い方をするなぁ)とか、しょっちゅうあります。でもそれを面と向かって伝えることはあまりしたことがありません。伝えたほうがいいのかもしれない、と頭では思っていても、気まずくなったらどうしようとか、これ以上自分の傷が深くなるくらいなら、このまま我慢していたほうがいいな、とか考えて、二の足を踏むことになります。うーむ、これも違うなぁ。私の行動、反応が遅い場合が多い、あるいは過敏に、被害者的に反応してしまうということに問題があるのだと思います。よく、「まず動け、それから考えよ」と、「考えが先で、それから行動する」とパターンが取り上げられるが、私は後者のほうです。考えてからでないと、しかもよく考えてからでないと、動かない、動けないのです。(今のはどういうことだろう。どうしてほしいんだろう。どうすればいいのか。おれはどうしたいんだろう)って考え込んでしまいます。それだと周りのほうがどうしても動きがはやいことのほうが多いので、一歩も二歩も遅れをとってしまうのです。まぁ、それを良しとしてマイペースで生きてきたのですが、共同生活をするとなると往々にして不況和音が生じかねないことがわかってきました。今のところ、どうしようもないのですが、私は少しずつ改める、学ぶ、成長するということを意識して暮らしていく必要があると感じています。実に難しいことだと頭を抱え込みたくなります。これまでずっと(私は私、あなたはあなた。あなたにとやかく言われる筋合いはないし、私は自分がやりたいようにするだけ。あなたのことは認めるけれど、私のことは認めてもらわなくてもかまわない)というスタンスで生きてきたし、これを変えようとも思っていないのですから。でもそうも言っていられないので、自分の気持ちを感じ、整理し、少しでも多く、きちんと表現していくようにすることで、周りとの関係で程よい距離を保っていけたらいいと思います。

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