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ルールではなく実感で

ルールではなく実感で (『感じない子ども こころを扱えない大人』を読んで②)
 私が気持ちを大切に扱ってこなかった ― 押さえ込んだり、無視したり、締め出したり ― のはどうしてなんだろう。何かあったんだろうか。強烈な情緒的体験をしたときに周りから何らかのケアがなされないと、自分が受けたネガティブな気持ちや思いは行き場を失ってしまうらしい。私はこれまでごく自然に育てられてきたと思っている。大病もせず、勉強も上々だし、仕事も続けている。ありがたいことだと思っている。でも振り返ると、多くの時間を独りで生きてきたように思う。もちろん一人で生きてきたというおごりはない。人はひとりでは生きていけないのだから。人と人とのつながりがあって生きていくことができる。そういう意味で人は人間なんだ。私にはその“間”の部分に欠落している何かがあるのだろうと思う。それは気持ちなのかもしれない。私の、子どもの頃の話をきくと、おとなしかった、人見知りをする、手のかからない子だった、というようなことを言われる。はたしてそれは本当にいいことだったのだろうかと疑ってみる。おとなしく、手がかからないから放っておかれた。人見知りするから人と会う機会を積極的にはもたせることをしなかった。そのようなことを通して私は自分の気持ちの行き場を失ったり、迷ったりしてしまい、次第に気持ちを押さえ込んだり、切り離したりして、自分の殻に閉じこもっていったのではないか。それを傍から見るとおとなしく見えたり、自立しているように思えたりしたのではないだろうか、と。今、自分の気持ちの持ちようとか、表現や処理の仕方とか、また、実際の行ないとかいったことに行き詰まりを感じている。心が荒れているというか、気持ちをうまく消化することができていないと思う。どうしてそのようなのかというと、今の私には、「快」-「不快」といった気持ちをとらえることよりも、「正」-「誤」といった基準で物事を感じたり、行なっていたりするのではないか、と気づかされた。特に悪意があるわけでもなく、純粋に何かをしてほしいと言ってくる人がいたとして、その表現や口調に私の価値観と違うものがあると感じたりすると、私は(それは正しくない)という反応を起こしてしまう。相手はただ、(こうしてくれれば心地いい)ということを伝えてきているだけにすぎない。そのところをうまく扱えないのだ。真っ先に正誤の基準で捕らえずに、「お互いに気持ちをわかりあい、気持ちよく存在するためにあるルール」であるということを意識して、他者と自分と、そしてその間にある気持ちや関係と向き合っていくことが今の私には必要なのだと思う。

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