起-動線『本日の格言』
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今日たまたまテレビをつけたら、【偉人たちの健康診断】をやっていて、内容が「織田信長の隠れた病」ということだったので少し流し見てみた。その本題に行く前に履いていた履物が取り上げられていた。足半だ。
(おっ、これは)
実は持っていながら、お蔵入りしていたのだけれど、
久しぶりに取り出して履いている。数年前に買ったものだ。
私は足裏の横アーチが落ちていて、魚の目や、タコのようなものができて、痛みを覚えては、切り取ってを繰り返す日々を送っているのだ。
そんな折、足半は浮足やら横アーチやら足裏を鍛えるにはもってこいということを知り、買ったのだ。ところが、鼻緒の一部分が足に合わず、痛みが生じてしまうので履くのをやめていたのだ。数年ぶりに履いてみたら、いまのところ不調を感じない。番組を見た勢いに乗じて、今日からまた室内履きとして使い続けてみようかと思っている。
”一つ一つの行動を一生の最後のもののごとく行い”
マルクス・アウレリウス『自省録』2-5 (抜粋)
いまだに立ち止まれず、振り返れず、流されている私は愚か者である。
それは生きる目的、目標を持っていないからなのだろう。
”あらゆる衝動と思念とを向けるべき目的を持っていない人たちも愚か者なのである。”
マルクス・アウレリウス『自省録』2-7 (抜粋)
神 神々 摂理 自然 全宇宙
私もこれらの一部である。
偶然かつ必然であり、調和であり、変化であり、善である。
このようなことが腑に落ち、受け入れられるように思えるようになった。
気持ちが落ち着き、平静でいられるように思える。
安心して生き、死ぬことができように思える。
私は自然と一体であり、自然に帰り、その摂理に身を委ねていく。
マルクス・アウレリウス『自省録』2-3 (参照)
過去はすでに過ぎ去ったものであり、変えることはできない。
未来は来るかどうかわからないから、気にしても仕方がない。
いまを生きることが大切だと言われるが、それもまたすぐに過ぎ去ってしまい、
働きかける間もなく、手の施しようがない。
やがて死が未来から現在にやってきて、すぐに過去に去っていく。
このようないのちにおいては生きているうちはひたむきに生きていく他ないのかもしれない。
生きることを、生きるのだ。
最近LINE上の記事でバターコーヒーなるものを遅ればせながら知り、 昨日は出かけのついで、合間を縫ってファミリーマートでバターコーヒーを買い、飲んでみた。
(おおー、新たなテイスト!)おいしいと思った。
勢いに乗って、KALDIでグラスフェッドバターを買って帰ってきた。
今朝は珈琲をフレンチプレスで淹れ、バターをレンジで溶かし、珈琲に溶かし、 MCTオイルのかわりにこめ油を入れ、飲んでみた。
(んんー、これはこれでおいしい!)ちょっとしたマイブームになりそうだ。
最近、自分のキーワードとして「ヒョウ|ショウ|ジョウ」を事あるごとに口にしている。
「ヒョウ|ショウ|ジョウ」 漢字にすると「表象情」だ。
表象とは、現われた形、姿のことだ。情とは、感情、気持ちのことだ。
ことばのあいだに | を入れたのは、区切りを入れ、別々のものだということを意識づけるためだ。
【100分 de 名著】で取り上げられた『自省録』において、マルクス・アウレリウスは自分の外部にあるもの、つまり表象にのみに心を動かされると、人間は運命に翻弄され、心の動揺を招くというようなことを自分(=君、お前)に向けて綴っている。
表象、それは他人であり、自分以外のものすべてはそのようにあるものであって、自分が働きかけて変えられるものではない。
それらの表象を通じて、自分のなかに生まれる情や主観においてネガティブになる必要はなく、愚の骨頂であり、時間の無駄であるとしている。
日々の暮らしのなかでいろいろ遭遇する様々な表象にその都度、情をもって、たとえばイライラしたり、不満に思ったりするような場面に行き当たったときに
こころのなかで(ヒョウ|ショウ|ジョウ)「表|象|情」
とつぶやいたり、時には声にして、表象に対して自分がネガティブな反応や情を抱くのを止めたり、落ち着かさせたりするときに効果があると個人的に実感できている。
「ヒョウ|ショウ|ジョウ、あなた(=自分)は…
こんな(=表象)で自分の情(=気持ち)を乱されることはないよ」と。
この世のなかにはいろんな人がいる、いろんなものがある。
いま使われている意味における善いも悪いも
ストア哲学派が意味する善いも悪いも含めて
いろいろいる、いろいろある。
この世のなかに、この自然のなかに、この宇宙のなかに、この摂理のなかに。
そしてこの世界に表象(あらわ)れているすべてのものはバラバラのようで、ひとつであり、ひとつながりになっている。
よく見聞きする、人はひとりでは生きていけないということがそのことを表している。
個々に見ると善きも悪しきもあるのだけれども、それらはひとつのなかにある。
他を見て、悪しく見えたとしても、それは自分のなかにあり、自分に返ってくる。
汝も我もすべてひとつのなかにあるのだから。
たとえ悪しく思えたとしても、それを表すことはできない。
その悪しき物事に働きかけることはできる。他者を変えることはできないというけれど、良きも悪しきもひとつの内なるもののなかにあるのだから、働きかけることができるものだ。
すべてはそれぞれのものへ、それぞれはすべてのものへつながり、働きかけあっている。
このことを知り、受け入れることでこころのなかは平静がもたらされ、令く(よく)、和やかなものとなる。
僕の、かつての『朝の時間割』は
朝4時頃に起きて、30~60分、瞑想することだった。
ところが、
瞑想は役に立たない
というような文章に触れ、一気にぶれてしまいやめてしまった。
『良き人生について―ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵』を読み終え、その磁性に惹きつけられて、私勝手に名づけた、自製〈ストイック・メディテーション〉、
すなわち、
〈Stoic=ストア哲学派的な瞑想〉をやってみようかと思い返しているところです。
つまり(引用 p.127)、
”坐禅とはもちろん完全に異なる。禅僧は坐禅しているあいだ、何時間も心をできるだけ空っぽにして座っている。反対にストイックが寝る前に瞑想するとき、心はきわめて活発に動いている。彼はその日の出来事について考える。心の平静が乱された出来事はあったか? 怒りを経験したか? 羨望は? 性欲は? なぜそれらの出来事は心を乱したのか? 心を乱されるのを避けるために、できることがあったのではないか?”
無にならなくていい。マインドフルネスとも違う。まさしく目を瞑(つむ)って想うのだ。
このような瞑想なら、無になる(=無駄になる)ことはなさそうだ。
できていない『振り返り手帳術』を頭のなかで行なうのだ。
そしてそのことを書き留めることにつながるかもしれない。
あとは時間割して、実践あるのみ。
少し昔、仏教や瞑想に関心をもったことをきっかけにヨガのクラスを受けるようになった。
仏教はなかなか手ごわいと感じるなか、老子を読むようにもなった。
老子のいう、あるがままも、なかなか雲をつかむような感じがした。
『ハンナ・アレント―伝えることの人間学』を読んで、アレントに関心を持ちつつ、いろんな哲学者の関連本を読むようになった。
ソクラテス、ニーチェ、レヴィナス、プラグマティズム関連が印象に残っている。
手を広げることはできないが、シモーヌ・ヴェイユ、ラーマクリシュナ、マルティン・ブーバー、空海、道元、良寛、マインドフルネス関連などが気になる。
『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』を読んで、荀子を知ることになった。
荀子は性悪説も唱え、あるがままでは良くないんだとしていることで関心が強まった。
あるがままの、老子と違ったものの捉え方をどのようにしているのか、と。
そして、【100分 de 名著】を通して、マルクス・アウレリウスの『自省録』を知る。
仏教に通じる面を感じつつ、わかりやすさ、受け入れやすさが心地よい気がする。
老子の道〈タオ〉に通じつつ、荀子の性悪説を超えて、自然の摂理に身を委ねたい。
プラグマティズムと通じるような実践、実用的なことばや考えを身につけたい。
来たる明日人間ドックの結果受け何告げられむ身引き締めらるる
同僚にヨタを告げれどすんなりと頷かれしヨタも甲斐なし
腹巻し深く眠れし夜なればイビキ聞こえず夢のみ待たるる
逢瀬とは意異なるかな嫁ぐ儀は 想いは千千に浮きしさ迷う
「お疲れ様」気遣いに満ち有り難き 聖き女よりチョコいただけり
ロボットのような振る舞い不気味なり 助言聞く耳あれど通じず
足早に駆け込む職場様々に 静かなりし朝ざわざわ明けむ
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起きてなほ十二時間をも勤めなり 身置きてこころ先に帰りぬ
あかぎれの痛み覚えて手をやれば 目からもヒリリと走る旋律哀し
病む人の多きに傾ぎ驚けり 健常の身に潜みし病
挨拶を交わし交わされ返されず こころも軽く重く浮き沈みし
渡されし新聞の記事読み捨てて 別の記事推し差し戻しけり
灯と光 ガラスを照らし燦々と眩く包まれ気分も晴れむ
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時あればあったでゆるりと支度せし 出がけ迫りし慌ただしくある
飲めば出で飲まねば渇く性質なれど 病か迷いそぞろの身こころ
判押さむキャップ弾けて窓の外 笑みも返され我も微笑む
「お疲れ様」いつもの無愛想どこへやら 思いがけなき温かきを知る
寒空をいつもの喫茶へてくてくと ほっと味わい明日に臨まむ
手のひらにクリームつけじと甲のみを擦れどあれよベタベタなりき
腹の虫空きぬ食べよと身に告げむ まだまだ先と本の虫説く
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何を食べはよくないのかとか、何を食べたらよいのかとかいうことについては多種多様な意見があり、どれを信じ、従ったらいいのか判断がつかない。むしろこういったことよりもどのように食べるかが大切なのではないかという思いに至った。食べもの、そして食べて生きていくということはいのちにかかわることだ。口に入るまでに、どれだけの生きものがその生を閉じられ、どれだけ多くの人がかかわり、また同時にどれだけ多くの資金がかかっているのかということを思わざるを得ない。
食について考えるきっかけとなったのはコレステロール値の高さをなんとか適正値にしたいと思ったことだ。それには食べもの、食べることについて見直して、実践するしかない。そこでサプリメントやゴマ、ナッツなど効果が上がりそうな食べものを試してみたけれど、思うようには数値は改善されなかった。はたして何を食べたらよいのか、悪いのか、どうしたらいいのかといろんな本を参考にしてみた。でも、そこでの情報は同じ食べものでも評価が分かれ、さっぱり訳が分からなくなってしまった。
去年の秋に至っては、そういうことであるなら、いっそ食べないでいるという選択があってもいいと思った。本にあっても、断食、一日一食、一日二食、少食などあまり食べないでいるという選択肢が薦められていることも知った。実際に断食・少食(≒ファスティング)をやってみると、ファスティング・ハイ(=空腹が心地よい)とでも呼べる心地よさを感じた。からだもこころもリセットされるかのように感じた。すっかりはまりこんで、見る見るうちに体重は落ちていった。若干急激にやったことや知識が不十分なこともあり、脂肪に加えて筋力も落ちてしまったのは軽率だったと反省している。始めた当初は一日24時間断食を目指しつつ18時間断食、次いで一日一食、一日二食、今では空腹を感じたら食べるというように変遷をたどってきている。
ひとつの結論として、食べるときは食べることに意識を向けて食べることが大切なのだということに至った。それがせめてものいのちに対する敬意というものだろうと思う。まずは、テレビを見ながら食べるのをやめる。これはすぐにでもできる。また、きちんと座って食べる。立ったまま食べたり、歩きながら食べたりするのをやめにすること。こういった何気なくやってきていたことをいのちを思い、食べることに専念することであらためていきたいと思う。食べものを少しずつ口に運び、じっくりゆっくり噛みしめて食べる。そうすることで特に玄米はその栄養素を十分に生かすことができ、健康に貢献することにもなる。この試みで自然と食事の時間はこれまでよりも多くかかるようになった。ふたりで食べるときはこれまでより話すことが多くなったと思う。本来はおしゃべりも慎んで、食べることに専念したほうがいいのだろうけれど、コミュニケーションも大切だし、話すことが楽しいし、食事自体をより楽しめる気がするのでこれはこれで構わないと思っている。テレビについても見たい気持ちが強い番組であるなら、見ながら食べても構わない。ギシギシに守らなければいけないというものでもない。
実際にテレビからの情報も役立てている。両手のひらいっぱいの野菜を食べること、起床時、就寝時に血圧を測り記録すること、体重を量り記録すること。これらのことを実践することで健康につながる要素になるらしい。今では毎日ほぼ実践している。野菜を食べることについて今のお気に入りは、セブンイレブンの〈彩り野菜のサラダボウル〉に、惣菜の〈きんぴらごぼう〉や〈ひじき煮〉などを加えて、量を増やし、ドレッシングは控えめにして惣菜の味つけで野菜を味わい食べることにしていることだ。夫婦ふたりで食べるとき以外は肉や魚はあまり食べていない。十分満腹になるし、間食はあまりしなくなったし、あまり疲れを感じることもなくなり昼寝や横になって休むことも少なくなった。また、りんごを毎日食べるようにした。りんごを食べれば医者知らず、というようなことが言われている。納豆は陰性の食べものということで、陰性体質の人は食べないほうがいいということもあって、一時期やめていたけれど、納豆をやめたくらいで冷え性が解消できるわけでもなく、納豆がもつ他の効能のほうを活かしたほうがいいと思い、また食べ始めている。冷えをとるなら、筋力をつけて、血流を良くしたほうがよほど即効性があるという話もある。なかなかからだを鍛えるっていうことに積極的にはなれないでいるところが難である。
こうしてしばらくは食べることを通して、健康面に気をつかっていきたい。今までは食べることについてはどうにもできない、どうコントロールしていいかわからないという思いだったけれど、菜食優先を実践し、定着できたことで、自分でもできるという感触を得られ、これからもつづけられそうである。そしてからだは半年前の食事でできていると言われることから、初夏の頃の健康診断数値がどのように変わるのかが楽しみになっている。
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去年は同僚と甘味がブームになり、いろんなものを食べた。
それらのなかでも僕はやっぱりつぶあんが大好きだという思いが強くなった。
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